昼、授業が終わってから部屋に戻り 荷物を置いて、市内へ出た。 フランコが部屋でVCDを見ていたのと 今週ずっと昼間部屋を独占していたので申し訳ない意味もあり 文庫本を買うべく天津街へ向かった。 (フランコは来週帰国する。寂しくなるものだ) 市内へ入る寸前、乗っていた小公共汽車が止まった。 途中運転手がギアを変えたとき変な低い音が鳴っていたのだけれど、 とうとうおかしくなって ついに止まってしまった。 運転手と集票員が降りてなにやら動かそうと えっちらほっちらやっていたが、うまくいかない。 五分程たっただろうか 運転手は後ろからやってきた502のミニバスを止めて 「お客さん、この車なんぼやっても動きまへんので、あっちのバスに 乗り換えてください」 ・・・ということで乗り換えた。 バスはそのまま 友好広場迄行って、私は降車した。 外文書店の2F(日本の書籍を扱っている。割高)で『Cの福音』と『ソウルと平壌』を買い 新華書店で幼児用『西遊記』と『三国志』の本を購入した。 その後、マイカル迄歩き、地下でカツ丼を食って トマトとヨーグルト、パン、洗剤を買って 公共汽車(406)に乗って帰った。 途中、中国と中国人について考えながら歩いた。 日本と言葉が違う以上習慣も違って当然のことなのだけれど この国はこれからどうなるのだろうと考へた。 「油っこい料理が多いのに痩せている人が多いのはどうしてか?」 「どうして(大連には)足の長い女性が多いのか?」 思いっきり汚い家を見て 「どうしてこんなに汚い家に住んでいるのか?」 社会の構造を考えると人の多いことが引き起こす様々な現象が 彼等には生活する上で自然に(当たり前として)身につけているのかもしれないが 私にはそれがわからない。 日本もそれなりに人は多い。 フランコの母国たるスイスは人口680万人で国が成立している。 調べてみると 神奈川県の人口の方がそれより少し多い。 統一ドイツで約8,000万人、英仏で各々約5,700万人。 130年前の日本は約3,000万人だったそうだけれど その当時の欧米諸国はどうだったのだろう。 その社会に人が多い少ないというのは 環境を考える上でひとつの要因だと思う。 金持ちの人、貧しい人、身なりのきちんとした人、そうでない人、 親切な人、無愛想な人等々。 服装をあげると圧倒的多数で真ん中に位置する人が多い。 小ぎれいにしている人は少ない。(他の経済先進諸国と同様増えるのかもしれない) この前TVのニュースで大連の副市長が出ていたが 服装はどっかのそのへんのおっさんと全く同じであった。 日本ならまず考えられない。 そういう役職にある人が普段着でTVに出演する自体あまりない。 しかしながら こちらではそれが放送されている。 まこと不思議としか言いようがないのだけれど こちらではそうではないだろう。 これは環境のなせる技だと思う。 周りがしているから私も・・・というような感じで。 公共汽車でも人が一杯になってなってから発車するシステム (時に時間がくると発車するケースもあるが)など 日本ではあまり見られないシステム(習慣)だけれども ここの生活に慣れてしまうと不思議に思わなくなる。 中国人の目からみると 日本はあまりにも せちがらく、ぎすぎすしている感じがするのかもしれない。 ゆっくりと街を歩くおじいさんを見てると 「もっと ゆっくり いきなはれ」と言われているような気がする。 大連に来たときは市場がとても雑然として 清潔でないのに気になっていたのだけれど 最近は慣れてしまった。 果物(水果)、トマトなどは食べてもお腹をこわすわけでもないし (人間少々汚くても、それなりに洗ったり料理すれば生きていけるものだと感心した。 もちろん相応に汚いのは普通に考えてもよくないけれど) 慣れてしまうと変革しようという気持ちがおこらないから 変える必要性を感じないから(また感じ取れないから) 変わらないのだろう。 変える必要性の高いと思われるものが変わってゆくのだろう。 |
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